経済活動を中心にするのではない、豊かな生活世界を支える社会をどうつくっていくか。「建築の未来」はそこにあると思う
北山恒
「建築の主題は、都市のほとんどを埋め尽くす住宅である」と主張するように、北山恒の作品群には住宅が多い代表的なものに「洗足の連結住棟」「祐天寺の連結住棟」があるが、これらは、現代社会で希薄になっている共同体感覚を喚起する新しい集合住宅として、北山が世に問うたものだ。背景には、20世紀後半から始まった人々が分断されるような空間への批判がある。
壊れていく都市、コミュニティを憂慮し、北山は一貫して、人間が豊かな社会を形成していくための建築を模索し続けている。社会の仕組みをデザインすることが、建築の本質だと考えているからだ。北山の視線の先にあるのは「経済のための都市ではなく、生活のための都市づくり」である。
絵や工作に長けた少年。“建築のすごさ”を早くに感じ取る
総理府(当時)にいた父親が香川県庁に出向していた関係で、北山は小学校6年まで高松市で過ごしている。同地には、強く記憶に残る建築物がある。丹下健三が設計した香川県庁舎だ。父親が発注者側にいたことから、庁舎の竣工式に出る機会を得た北山は、その空間の力に驚いたという。
親父が出向を終えて東京に戻った頃ちょうど完成するのが国立代々木競技場の体育館。とりわけ、僕もよく通ったオリンピックプールがカッコよくてやっぱり丹下さんなんですよ。香川県庁舎もそうですが、すごく“開かれている”というか、子供心にもほかの建物とはまったく違うと感じていました。「建築ってすげーな」と思った原点は、ここですね。
僕が高校生の頃は学生運動が熱を帯び始めた時代で、通っていた戸山高校でも、進学校ながら高校闘争があり、大学進学をよしとしない連中がけっこういました。僕もその一人で、「本当に革命が起きる」と思っていたからデモにも参加し、一方では、寺山修司の演劇やヌーヴェルヴァーグを代表するゴダールなどの作品に夢中になりと、そんな高校生でした。
勉強なんてほとんどしないから、成績は落ちていったんですけど、現代国語と体育、そして美術だけはよかった。小さい頃から絵と工作が得意で、何かと賞に入選していたから、自分には才能があると思っていたんです。だから大学受験を控えた時、僕は美大を考えたのですが、親父が官僚でしょ、「法学部とか工学部とか、まっとうなところに行け」と言うわけです。まぁ、まっとうかどうかは別にして(笑)、工学部なら建築があると。丹下作品に感動したわけだし、美術的にもつながりがある。それで僕は、進路として建築を選んだのです。
- 横浜国立大学へ進学
東大の入試が中止され、臨んだ京都大学は落とされ、北山は浪人したのち、横浜国立大学へ進学。変わらず学生闘争に参加していた北山にとっては、当時、“過激な大学”だった横浜国大は、結果的に肌に合ったようだ。
建築学科の学生仲間で、どこのセクトにも属さない「建築共闘」を立ち上げたんです。赤くARCと記した黒ヘルメットを被り、デモにも積極的に参加して。公安関係者に「お前ら、アナーキストだろう」と詰められた時には、「我々はアーキテクチャーだ」と(笑)。
1年生の時だったか、『美術手帖』で連載されていた磯崎新さんの「建築の解体」を見つけたんです。学生闘争と連動するようなタイトルに惹かれて読み始めたのですが、僕は大きな影響を受けています。それまで、建築はとても体制的なものだと思っていたのが、そこには「建築は社会を変えていく文化運動である」という主張があった。建築でも社会を改革できるかもしれない――僕がちゃんと勉強しようと決めたのは、それを信じたからです。
アルバイトにも精を出していたのですが、原宿にあったULTEC(丹下健三・都市建築設計研究所)では、憧れの丹下さんの近くで、建築というものがつくられる現場を“実感”することができました。加えて、社会を見たくてやっていたのが横浜の港湾での荷役。仕事がきつく、バイト料が破格によかった。一晩で1万5000円。これで国立大学の学費1年分を稼げたんですから。時に年配の港湾労働者に付き合わされ、イカサマ賭博でお金を巻き上げられたこともあったけれど、それも含めて面白かった。なかなか刺激的な大学生活を送っていましたね。
- 大学院在学中に事務所開設。そして“建築武者修行”へ
大学院在学中に事務所開設。そして“建築武者修行”へ
もとより就職する気はなく、「モラトリアムのつもりで」大学院に進む。大学院生の頃には、すでに飲食店の内装設計、施工を手がけていた北山だが在学中に、友人らと“勢い余って”ワークショップという設計事務所を開設。しかしながら「どう営業すればいいのかわからない」。しばらくは食えない時期が続いた。
高校時代の同級生や、ワークショップを一緒に始めた友人の実家の家を設計するとか、そんな仕事から始めました。「僕らは建築家ですから」と、親御さんたちを半ばだますように説得して(笑)。西麻布のワンルームマンションで始めたのですが、実質、何で生計を立てていたかというと、メンバー皆でやっていた塾教師です。20代後半の頃は、本当に食えなかったですねぇ。
一つ転機になったのは、この友人の家が『都市住宅』に掲載されたこと。そこには恩人、吉田研介さんの存在があります。当時、吉田さんは若手建築家の一人として、作品や論文を意欲的に発表されていて、近所に住んでいた僕は、しょっちゅう遊びに行っていたんですよ。そんなご縁から、編集長を紹介してくださった。その後、「国分寺西町の家」が『新建築』に掲載され、これが一番の登竜門で、建築家としてデビューできたということです。当時は、名もなき若手の作品が『新建築』で発表されるなどあり得なかった。そして僕たちは、パリの若手建築家の展覧会にも招待されるという幸運を得るのですが、やっぱりメディアの力ってすごく大事。今はネットなどほかのルートもあるけれど、この頃は、メディアに載らない限りは建築家として芽が出ない時代でしたから。
とはいえ、零細事務所であることには変わりない。塾教師も続けながら事務所で寝泊まりする日々です。ある日、久しぶりに家に帰ると、親父が待っていて「お前の人生は失敗だ」と言うんですよ。大企業に就職して大きなビルでもつくっていれば、世の中の役に立つのにと。30歳過ぎて、給料もろくに取れないような事務所を男3人でやっている――親父にしてみれば理解できず、大問題の息子だったでしょうね。まぁこれを契機に、自分でやるしかないと思ったんですけど。
- 北山を駆り立てたのは「建築を学び、体得したい」というハングリー精神である
さほど仕事がない時期、北山は幾度となく建築の武者修行に出ている。主に、コルビュジエやパラディオなどといった歴史的かつ有名建築を巡る旅だが、そのスタイルはいつも単身のバックパッカー。時に危険な場面に遭遇することもあったが、北山を駆り立てたのは「建築を学び、体得したい」というハングリー精神である。
少しお金ができると、長期で海外に行くというパターンです。初めて行った先はインド。いつも貧乏旅行ですが、インドでは原因不明の高熱がずっと続いて、本当に死ぬかと思った。それでもアーメダバードやチャンディーガルなどを回り、気になる建築を見てきました。以降もあちこち行くようになって、30代前半の頃には、残存するコルビュジエやパラディオの建物はほとんどすべて巡り終えていましたね。
この頃、日本では構造主義が語られていて、レヴィ=ストロースの本を読むのですが、よくわからなかった僕は、理解する手がかりとして西アフリカのマリ共和国に行ったんです。構造主義の人類学者がドゴン族を研究対象にしていました。1カ月ほど滞在したんですけど、実はこの時、隣国で戦争が起きていて、出会った外国人からは「本当に一人で旅行しているのか?」と驚かれたものです。あとから考えれば、累が及んで殺されていても不思議じゃなかった。けっこう危ないことをやっていたんだなあと(笑)。
時間は十分にあるでしょう。専門書を手に納得がいくまで自分の目で建築を確かめたことは、貴重な財産です。ポストモダンに入る時期に「俺はパラディオを知ってるぞ」だし、「構造主義もわかっているぞ」と。仲間と議する際にも強かったですよ。横浜国は確かに革命的な大学ではあったけど、僕の時代の建築教育に関していば、あまりよくなかった。このままは時代の思想についていけないんじないか。ある種の劣等感というか、ハングリーさがあって、自分で勉強しきゃと強く思っていたのです。
- 商業建築家として高い評価を得たのちに改めて事務所を開設
商業建築家として高い評価を得たのちに改めて事務所を開設
86年に発表した「ハートランド穴ぐら+つた館」を皮切りに、北山らはバブル経済の勢いと歩を合わせ、次々と飲食施設を手がけていく。「東京海鮮市場」や、地方都市にも展開された「BEERMARKET」シリーズなど、一般雑誌にも取り上げられた話題の店ばかりである。「ワークショップに頼めば、必ず当たる店になる」。彼らは商業建築家として名を馳せるようになった。
これもきっかけはメディアで、『都市住宅』が僕らのチームの特集を組んでくれたんですよ。それを見た広告代理店が、「まだ若いけれど可能性がありそうだ」と声をかけてくれたのです最初のハートランドのビアバーは、六本木のアンテナショップとして設計したのですが、これがすごく当たった。時代的に予算は潤沢だったし、話題に上る店をどんどんつくっていると、一気に儲かるようになりました(笑)。
ご多分に漏れず、バブル経済の崩壊とともに仕事は激減していくのですが終盤につくった飲食店「from DANCE」は、僕たちがオーナーとして運営していました。レストランの利益を生かし、週末には店でシンポジウムや演劇ができるよう企画したり、つまりハード・ソフト両面から社会に仕掛けるようなことをしていたんです。
当時は、音楽シーンを風靡したライブハウス群「インクスティック」に代表されるように、商業主義でワーッと出てきた人たちがが立っていた時代ですでも僕らは、そこに迎合したくなかった。商業主義のなかにあっても商業におもねることなく、自分たちの主張を持つ空間をどうつくるか。それを追求したつもりだし、一定、社会にも受け入れられたという自負はあります。
- 北山は、現在の設計事務所「architectureWORKSHOP」を設立
その後、ワークショップのメンバーは個々の道を歩むことになり、北山は、現在の設計事務所「architectureWORKSHOP」を設立。45歳の時だった。以降、多く手がけてきたのは個人住宅・集合住宅や公共建築で、様々な賞も受賞している。貫かれているのは、都市と人々の日常生活に向き合う真っ直ぐな視線だ。
チームから個人になり、不安な気持ちもあったのですが、またメディアが背中を押してくれた。かつてあった『建築文化』が僕の特集を組んでくれ、そこから「TOTOギャラリー・間」での個展に招待され、ヴェネチア・ビエンナーレでは日本館コミッショナーを務めるなど、活動がつながっていったのです。思えば、必ず誰かが僕を選んでくれている。2010年、「洗足の連結住棟」で日本建築学会賞をもらった時もそう。建築家としては学会賞を持っているかどうかで、存在感は格段に違ってきます。「俺でいいの?」と思ったりしたけれど(笑)、でも選ばれる度、真摯に仕事に取り組み、失敗はしてこなかったと思うんですよ。
ビエンナーレでは、生成変化を続ける東京を21世紀の新しい都市モデルとして捉え、「未来都市は我々がつくる」と宣言をしたわけですが、取り上げたのは生活と直結する住宅です。都市の大半を埋め尽くしているのは住宅であり、人が住んでるから都市になる。建築と都市を考えるうえでは、モニュメンタルなものではなく“日常”を相手にすることが重要だと考えています。
洗足や祐天寺の連結住棟は、そんな僕の主張を提示したものです。こと20世紀になってからの都市化は、急速にコミュニティを壊してきました。住宅においても、隣人の気配を感じさせないプライバシーの高いもの、それがいい空間商品だとされてきたわけです。デザイナーズマンションもタワーマンションも皆同じ。住宅が投機的商品として扱われるなか、建築家も人々が分断されるような空間をつくってきた。でもこれからは、そうではなく、人と人が関係性を築けるような空間をつくるのが僕らの仕事だろうと。連結住棟はその一つの取り組みで、プライバシーを下げ、空間の使い方は住まい手の選択に委ねるようなつくりにしています。いわば「共同体を要請する建築」。僕にとっては新しい住宅の提案であり、社会への問いかけでもあります。
- 人々を豊かにする「未来の建築」を求め模索し続ける日々
人々を豊かにする「未来の建築」を求め模索し続ける日々
北山はプロフェッサー・アーキテクトとしても長く活動しており、30年近くになる。先駆的な建築家教育を担う横浜国立大学大学院/建築都市スクール「Y‒GSA」開校の立役者でもあり、現在は校長を務めている。日本初となったスタジオ制の導入や、「生徒が先生を選ぶ」システムなどといったユニークな取り組みは、まさに教育現場の“改革”を目指したものだ。
僕の小論を読み、評価してくれた母校の教授が「来ないか」と声をかけてくれたのです。専任講師から始めてけっこう長いんですけど、実務があるから学位論文のために十分な時間も割けないし、正直、非常勤感覚だったんですよ。途中で辞めようかとも思ったのですが、そのタイミングで「残って続けろ」と言われ、教授になったのが01年です。
それで初めて本気になったというか、何か新しいことをできそうな気がしたんです。教授になると、資金の流れや組織の仕組みがわかってきたから。「じゃあ革新的な学校をつくろう」と立ち上げたのがY-GSAです。
大学って研究者ばかりで、つまり教授は、自分の研究室に入った学生をアシスタントのように扱い、自分の成果のために学生を使います。日本の教育システム全体がそうなっているんだけど、学生は教授に隷属する。学生が主体となる学校。もっと実践的で、わくわくするような教育。それを追求した結果が、世界中から面白い実務家を招聘するレクチャーだったり、学生が半年ごとにプロフェッサー・アーキテクトを選択できるスタジオ制度だったりするのです。
今、Y-GSAには、18名の定員に対して100名近い志願者が全国から来ていますし、学生コンペの上位には必ずY-GSAの学生が入っています。一定の成果は挙げられたかなと。僕は来年いっぱいで退任になるので、それからは実務を中心にしていきたいと考えています。やはり建築家は、実務をすることに存在理由があるので。
- 北山は今、人々や社会を豊かにするための建築を模索し、挑戦し続けている
建築現場と教育現場、その両方を足場にしてきたことで、北山は「自分の仕事のためではなく、社会のために活動することの意味」を改めて認識したという。減衰が進む日本社会において、建築の概念も転換期を迎えている――北山は今、人々や社会を豊かにするための建築を模索し、挑戦し続けている。
これからの建築のあり方を考える意味で、学生たちにも読ませているのは『資本主義の終焉と歴史の危機』や、新しい豊かさを構想する『定常型社会』といった本です。資本主義の独裁を象徴するような、派手な建築の時代はもう終わっています。例えば今、国立競技場をザハの建築でやろうとしていますが、大間違いだと思うんですよ。ああいう“びっくり建築”では社会が変わらないし、もっと大事なところにお金を使うべきだと思う。
僕にとっての大事なテーマは「コモンズをどうしたら再生できるか」ということ。資本主義というのは、所有が明確にならなきゃいけないから、共有資源が乱獲され、結果、社会システムに、社会格差などといった様々な矛盾を引き起こしたわけです。「コモンズの悲劇」です。でも、日本には古くから入会地というものがあり、皆で自然を大切にし、他者を包容しながら共生してきたのです。近代主義のなかで壊されてきたそんな普通の生活、多様な人々が集合して生活を営める社会空間を推し進めることで、僕はコモンズの再生を図りたいのです。
最近は、東京の木造密集市街地にそういう仕掛けをしています。リサイクルの方法しだいでとても快適な場所になるし、コモンズを生成するのに適した場所なんですよ。
また、今年着工する予定の「モンナカプロジェクト」も同じコンセプトです。コミュニティ・カフェとか屋上菜園とか、豊かなシェアやコモンの空間をつくり、人間の関係性を誘発する未来型の住居を計画しているところです。まずは、僕も住んでみようと思いながら(笑)。実験的ではありますが、人々にどう受け止められるかが楽しみだし、こういう建築が都市風景を変えていく可能性があると信じています。経済活動を中心にするのではない、豊かな生活世界を支える社会をどう形成していくか。僕はね、そのための道具箱をつくりたいと思っているんですよ。
- 北山 恒
Kou Kitayama 1950年7月14日 香川県高松市生まれ 1969年3月 東京都立戸山高等学校卒業 1976年3月 横浜国立大学建築科卒業 1978年4月 ワークショップ設立(共同主宰) 1980年3月 横浜国立大学大学院修士課程修了 1987年4月 横浜国立大学専任講師 1995年4月 横浜国立大学助教授 architecture WORKSHOP設立 2001年4月 横浜国立大学教授 現在 横浜国立大学大学院教授/Y-GSA(YokohamaGraduateSchoolofArchitecture)校長
- 主な受賞歴
1997年 「白石市立白石第二小学校」(共同設計:建築学会東北建築賞作品賞、日本建築学会作品選奨) 2004年 「公立刈田綜合病院」(共同設計:日本建築学会作品選奨・日本建築家協会賞) 2010年 「洗足の連結住棟」(日本建築学会賞・日本建築家協会賞) 2012年 「祐天寺の連結住棟」(日本建築学会作品選奨) ほか受賞作品多数