人間が持って生まれた五感が伸び伸び働く建築、心身にフィットするような建築。それが増えていけば、この国はもっと豊かになると思う
富田玲子
有志らと共に「象設計集団」を設立したのは32歳の時。以来、富田玲子は45年以上にわたって「気持ちのいい暮らしの場」づくりに専心してきた。住宅「ドーモ・アラベスカ」やコミュニティセンター「進修館」、「名護市庁舎」「笠原小学校」など、手がけてきたジャンルは様々だが、共通しているのは、それら建築物がごく自然に、土地や人々の暮らしに溶け込んでいること。だからこそ、愛着をまとって長く息づいている作品が多い。女性建築家として先駆的な存在であっても、当の富田には気負いなどなく、その実はいたって自然体。仲間との協働を大切にし、自分たちが信じる〝豊かな建築〞に真っ直ぐ向き合ってきた。変わらぬその姿勢が、人々を惹きつける作品群を生み出しているのである。
伸び伸びと育つ。将来の夢はピアニスト
軍医として従軍していた父親が戦死したことで、富田は女手で育てられた。母親は、日本で初の女性大使としてデンマーク大使を務めた高橋展子。一貫して職業婦人の道を歩んでいた母親に代わって、富田の側にはいつも祖母がいた。母親も祖母も強い人で、厳しくはあったが、何かを「してはいけない」と言われたことはなく、時代からすれば、富田はとても自由に育った。
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お琴や日本舞踊が好きで、幼い頃、自分から習いたいと言い出したのを覚えています。5歳からは3年ほど疎開していたので、習い事が途切れちゃいましたが、東京に戻ってからはピアノをやり、バレエをやりと、まぁあれこれ。好奇心旺盛だったんでしょうね。子供が3人いて、家計は大変だったはずなのに、やりたいことは何でもさせてくれて……感謝しています。「よく学び、よく遊べ」を地で行く日々を送っていた私は、暗くなるまで家に帰らないのが常。戻ると、家の前で祖母がドンと待ち構えていて、よくお説教されました。でも私は、「よく毎日同じことが言えるなぁ」なんて思いながら聞いていたものです(笑)。
将来はピアニストになりたい。そう夢見ていたので、中学生になってからは部活もせず、日々練習に励んでいました。ところが、同級生にすごい女の子がいたのです。今もご活躍のプロピアニスト・霧生トシ子さん。当時から素晴らしく上手で、彼女が弾く音を聞いていると「これはかなわない」って。結果、夢は断念しましたが、ピアノの先生にも恵まれましたし、音楽はずっと楽しみたかったので、大学生時代まで習い続けていました。
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進学したのは東京教育大学附属高校(現筑波大学附属高校)。同校は、祖母の若くして亡くなった長男の出身校でもあり、進学については祖母の願いもあった。自由な校風が肌に合ったのだろう、富田は「学校に行くのが楽しくて仕方なかった」というほど、充実した高校生活を送った。
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毎日盛り上がっていた、という感覚でしょうか。みんないい連中ばかりだし、音楽専任だった担任の先生もとても個性的でした。ミスターグリーンの異名を持つこの先生は、身につける物から持ち物まで全部緑色づくめ。「花がつける赤い色は葉っぱを引き立てるためにある」とか、「バイオリンよりピアノの音のほうがいい」などという独特の持論を聞くのが面白くて。3年間クラス替えがなかったので、そのぶん仲が良く、今でも皆で年中集まっているんですよ。
先の進路としては、医学部を考えていました。長女として、医者だった父の仕事を継がなきゃという使命感からだったようです。それで東大の理科Ⅱ類を受験したのですが、実は一方で、早稲田の建築学科も受けたんです。父が医者でなければ建築家になりたかったという話を聞いていたことが、影響したのかもしれません。あるいは、母が建築家の浜口ミホさんと同窓なので、そのご縁で自宅のリフォームをお願いしたからなのか……断片的に建築を意識する要素はありましたが、この段階では、「ちょっとその気になった」くらいの感じだったと思います。
両方とも合格して、早稲田大学の面接官の先生からは「奨学金を出すから」と言ってもらったんですけど、結局は「うちは経済的に苦しいから、私立はダメ」が頭から離れませんでした。それで東大に進学することにしたわけです。
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- 富田玲子
Profile
1938年9月24日 東京都新宿区生まれ
1961年3月 東京大学工学部建築学科卒業
1963年3月 東京大学大学院工学部建築学科修士課程修了建築設計事務所U研究室(吉阪隆正氏が主宰)に所属
1971年6月 象設計集団の設立に参加
現在は象設計集団東京事務所に所属
家族構成=夫、息子1人とその家族、娘1人とその家族は別に住む
教職
東京電機大学、東京大学、早稲田大学、
マサチューセッツ工科大学、ペンシルベニア大学、
などで客員講師を務めた