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Architect's magazine

建築には無限の可能性が 広がっている。何にでも挑戦できるし、 何でもつくれる。その可能性に目を 向ければ、こんなに面白い仕事はない 建築家の肖像 部憲明アーキテクチャーネットワーク Biographies of Legendary Person

建築には無限の可能性が 広がっている。何にでも挑戦できるし、 何でもつくれる。その可能性に目を 向ければ、こんなに面白い仕事はない 建築家の肖像 部憲明アーキテクチャーネットワーク Biographies of Legendary Person

岡部憲明

 岡部憲明が建築家としての活動を本格的にスタートさせた地はフランスである。25歳の時に渡仏し、「ポンピドゥー・センター」のプロジェクトに参加したのを皮切りに、イタリアでも活躍。日本に活動拠点を移したのは1989年で、著名な仕事として挙げられるのは、やはり「関西国際空港旅客ターミナルビル」と「小田急ロマンスカー」だ。通じて、自動車や船舶、鉄道、家具などといった建築以外の多様な領域に携わってきた岡部は、常に白紙からチャレンジを重ね、新しい方法論をも編み出してきた。そこに通底するのは「人間のための空間」「人間のためのデザイン」。人間性を重視した社会環境の実現が不変的なテーマである。

幼少期から探究心が強く、科学技術や物理学に興味を持ち続ける

 出生地は母親の実家である静岡県富士宮市だが、1年経たずして東京・江戸川区に移住。まだ戦後日本の傷痕が残るなか、岡部は〝下町っ子〞として育った。早くから興味を持っていたのは絵と物理学で、その意味では、建築に通じる素地はあったといえる。

 周りに言わせると、非常におとなしい子だったらしいのですが、食べるものが十分じゃなかったから、ただ動けなかっただけじゃないかと(笑)。父親が国語の教員だった関係で、家には文学書がたくさんあって、本はよく読んでいました。そのなか、『子供の科学』という雑誌をきっかけに興味を持ったのが科学技術の世界。中学生になった頃からアマチュア無線を始め、秋葉原にもしょっちゅう通ったものです。そして何より夢中になったのは、当時、NHKがアメリカから購入して放映していた『原子力時代の物理学』というテレビ番組です。大学教育用で子供向けではなかったけれど、アメリカのトップレベルの物理学者が自作した実験モデルを使って物理学をわかりやすく解説するもので、これが本当に面白かった。物理学に関する後々までの知識は、この番組で得たものに支えられているし、興味は今なお続いています。

両国高校に進学したのは、「文学者を多く輩出した学校だから」という父親の薦めを受けてのことです。印象に強いのは、面白い先生方がけっこういたことですね。筆頭は世界史の先生で、年間の授業の半分はフランス革命しか教えない(笑)。後の自分を考えると、ここで影響を受けたのでしょう。あるいは、教科書はあまり使わず、岡倉覚三の『茶の本』を読ませてグループ学習をする国語の先生とか。当時の文部省が規定するものを甘受せず、教育に気骨や特徴があったように思います。同時に下町ならではの話で、あらゆる階層のいろんな面白い生徒もいたから、自由を感じ、楽しみながら高校生活を送ることができました。

 この頃はまだ、具体的な職業のイメージを持っておらず、漠然とながらも進みたいと考えていたのは物理学の世界だった。「国立大学に合格していたら道は違っていたかもしれない」。一浪して受験先に早稲田大学を選んだのは、「建築学科が面白い」という評判と、入試科目に大好きなデッサンがあったからだ。

 大学に入ってみると、「本気で建築をやるんだ」という学生ばかりで、とんでもないところに来ちゃったなと(笑)。ただ幸いだったのは、早稲田大学にはデザイン研究会があり、ここで存分にスケッチを楽しめたことです。先輩がよく面倒を見てくれ、一緒に旅行に出て、あちこちを旅して巡りながら膨大な量のスケッチを描いたものです。とても勉強になったし、今でも大事にしている〝自分でものを見る〞習慣が身につきました。

とはいえ、まともに建築を勉強したのは最初の1年だけ。大学紛争に突入して理工学部もロックアウト、2年生になってからは講義もなくなりました。悶々と物事を考える〝闘争時代〞にあって、僕が惹かれて勉強したのはフランス哲学です。そこに本質的なものがあるような気がして。もとより、当時の学生たちの建築議論は性に合わないというのもありました。でも、講義がないなか開かれるようになった自由講座のおかげで、大学や学部の枠を超えて多様な知識に触れることができた。特に、空調機械工学の第一人者だった井上宇市先生によるゼミは印象的でした。また、吉阪隆正先生や武基雄先生の講義から、都市計画にも興味を持つようになりました。卒論は、数学から建築の理論に入ったクリストファー・アレグザンダーのパタン・ランゲージをテーマにしました。同時に、言語学や自然科学へとつながるフランス構造主義にも惹かれていったように思います。

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設計事務所を経て渡仏。ポンピドゥーの設計チームに参加する

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PROFILE

岡部憲明

岡部憲明
Noriaki Okabe

1947年12月9日 静岡県富士宮市生まれ
1971年 早稲田大学理工学部建築学科卒業
山下寿郎設計事務所入所
1973年 フランス政府給費研修生として渡仏
1974年 ポンピドゥー・センター設計チーム参加
1977年 Piano + Rice Associati 設立
1981年 Renzo Piano Building Workshop Paris
チーフアーキテクト
1986年 フランス政府公認建築家資格取得
1988年 Renzo Piano Building Workshop Japan
代表取締役(~94年)
1995年 岡部憲明アーキテクチャーネットワーク設立
1996年 神戸芸術工科大学教授(~2016年)
2007年 神戸芸術工科大学博士(芸術工学)

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