アーキテクト・エージェンシーがお送りする建築最先端マガジン

Architect's magazine

建築は社会全体における様々な流れに沿って動くもの。それを味わいながら、自分の行き場所を探していくと、自然な建築や生活に出合える

建築は社会全体における様々な流れに沿って動くもの。それを味わいながら、自分の行き場所を探していくと、自然な建築や生活に出合える

内田祥哉

日本の建築構法と建築生産研究の大家である内田祥哉は、これまでの長い道のりにおいて、常にアカデミズムと実践を両立させてきた。モデュラーコーディネーションを核とする研究成果は、プレハブ住宅から高層建築まで幅広く生かされ、戦後の日本の建築業界に多大な事績を残している。他方、設計活動における代表作には、日本建築学会賞を受賞した「佐賀県立博物館」「佐賀県立九州陶磁文化館」や、意欲的な実験集合住宅「大阪ガスNEXT21」などがある。加えて、内田はプロフェッサー・アーキテクトの先駆けとして、人材育成に寄与してきたことでも高名だ。学者、教育者として、そして建築家として、内田はまさしく、その人生を建築に捧げてきたのである。

終戦を境に、建築理論と実施を猛烈に学び始める

父親は、「その名を知らぬ人はいない」といわれる〝建築界の巨人〞、内田祥三。そして兄は、若き日の丹下健三のライバルと目された内田祥文。となれば、内田自身が建築家になったのは至極当然に映るが、意外にも家内には、「建築家になれ」というムードは全然なかったそうだ。この道に進んだのは、大学進学にあたり「建築以外に入れるところがなかったから(笑)」だ。

自宅兼アトリエ

本取材は、2016年9月、東京都杉並区にある内田祥哉氏の自宅兼アトリエで行われた

父にすれば、兄貴が建築家になったことで十分だったらしく、年の離れた二男である僕に対しては、好きにしなさいと。理科系は比較的得意だったので、漠然とながらも理系の道に進むのかなぁとは思っていましたが、職業として建築家を意識したことはないんです。そもそも学生時代の多くは戦争中でしたしね。開戦は僕が中学〝4年生〞の時で、以降、20歳で終戦を迎えるまで、記憶に残っているのはもっぱら勤労奉仕に励んだこと。農家に行っては田植えや稲刈りを手伝う。高校生になってからは日立の工場で無線機をつくったり、消防車に乗っかったり、汲み取りも……とにかく、やらなかったことはないくらい何でもやりました。学校で勉強するより、勤労奉仕する時間のほうがうんと多かったのです。

そんな環境下にあっても、通っていた武蔵高校はわりにリベラルな校風で、化学や物理など、いい先生もたくさんいらして楽しかったんですよ。ですが2年生のc時、僕は盲腸炎にかかり、さらには腸閉塞にまでなってしまった。当時としては生きるか死ぬかの話で、入院中はひどく苦しみました。折悪く、その時期に重なったのが3学期の試験で、僕はまったく受けられなかったのです。本来なら落第になるところ、特別な計らいをしてくれたのが担任の先生でした。「1学期と2学期の成績を足して3で割ったら、どうにか進学できそうだぞ」って(笑)。そのおかげで無事に進学できたわけですが、ただ、そういう事情から成績順位としては最下位だったようです。

この出来事が、いみじくも内田を建築の道へと導いた。大学進学を控えたこの時、受験先は内申書の順位によって決められていたから、内田は、進学指導の先生から「君の成績で入れるところは、建築ぐらいだ」と言われたのである。戦争中のため、工学部といえば航空や船舶が人気で、募集人員に対して応募者数が割れる建築学科ならば、「選考試験なしで入れるだろう」と。

1944年、実際に僕は、無試験で東大の建築学科に入り、ここから初めて建築というものに向き合ったのです。とはいえ、まだ戦争中でしょう、授業などほとんどありませんでした。B29が飛んでくるとサイレンが鳴り、みんな地下壕に入るから、授業や試験どころではなくなる。変わらず勤労奉仕もありましたし、誰もが勉強できる環境
にはなかったのです。

それが、終戦を境にガラリと変わりましたよね。大学では軍事教練がなくなり、学内にいた配属将校に叱られることもなくなった。いろんな束縛から一挙に放たれて、毎日大学に行くのが楽しくなりました。当時、建築学者である武藤清先生や岸田日出刀先生らが教鞭を執っていましたが、〝飢えていた〞僕は、すべてを吸収したくて猛烈に勉強したものです。ただ、本当に大変だったのは戦後の暮らし。父は東大総長職にあったから、戦後、公職追放に遭い、家計はピンチでした。加えての円暴落、財産没収で、日銭がないという日々が続いたのです。アルバイトしようにも仕事自体がないし、ひたすら勉強していたという感じですね。

なかでも、すでに建築家になっていた兄貴の仕事を手伝ったことは、大学での勉強と並行して、ものすごくいい実地勉強になりました。終戦後間もない時期に、兄貴が取り組んだ東京都の復興都市計画コンペの一つ、新宿の淀橋浄水場跡地計画を手伝ったのですが、僕自身も徹夜を辞さず、図面を引いたりしてね。このコンペで、兄貴は1等を取ったのです。でもその発表を前に、急逝してしまったので、彼の遺作となってしまいましたが……建築のこと、コンペのこと、僕は兄貴から本当に多くのことを教わったと思っています。

【次のページ】
逓信省勤務を経て母校・東大へ。モデュール研究に尽力

ページ: 1 2 3 4

PROFILE

内田祥哉

内田祥哉

1925年5月2日 東京都港区生まれ
1947年3月 東京帝国大学第一工学部建築学科卒業
4月 逓信省技術員
1949年4月 電気通信省技官
1952年4月 日本電信電話公社社員
1956年4月 東京大学助教授
1970年4月 東京大学教授
1986年4月 明治大学教授
東京大学名誉教授
1993年4月 日本建築学会会長
1994年4月 日本学術会議会員
1996年4月 内田祥哉建築研究室設立
1997年4月 金沢美術工芸大学特認教授
2002年4月 金沢美術工芸大学客員教授
2010年4月 工学院大学特任教授
日本学士院会員

主な受賞

1970年 日本建築学会賞(作品/佐賀県立博物館)
1977年 日本建築学会賞
(論文/建築生産のオープンシステムに関する研究)
1982年 日本建築学会賞
(作品/佐賀県立九州陶磁文化館)
1996年 日本建築学会大賞(建築構法計画に関する一連の
研究および設計活動による建築界への貢献)
ほか多数

人気のある記事

アーキテクツマガジンは、建築設計業界で働くみなさまの
キャリアアップをサポートするアーキテクト・エージェンシーが運営しています。

  • アーキテクトエージェンシー

ページトップへ