建築は社会全体における様々な流れに沿って動くもの。それを味わいながら、自分の行き場所を探していくと、自然な建築や生活に出合える
内田祥哉
日本の建築構法と建築生産研究の大家である内田祥哉は、これまでの長い道のりにおいて、常にアカデミズムと実践を両立させてきた。モデュラーコーディネーションを核とする研究成果は、プレハブ住宅から高層建築まで幅広く生かされ、戦後の日本の建築業界に多大な事績を残している。他方、設計活動における代表作には、日本建築学会賞を受賞した「佐賀県立博物館」「佐賀県立九州陶磁文化館」や、意欲的な実験集合住宅「大阪ガスNEXT21」などがある。加えて、内田はプロフェッサー・アーキテクトの先駆けとして、人材育成に寄与してきたことでも高名だ。学者、教育者として、そして建築家として、内田はまさしく、その人生を建築に捧げてきたのである。
逓信省勤務を経て母校・東大へ。モデュール研究に尽力
家計が苦しかったから、大学院への進学は叶わず、内田は逓信省(かつて存在した郵便や通信を管轄する中央官庁)に就職。営繕部設計課に配属となり、ここから建築家としての歩みがスタートする。戦後になった途端、建築が注目を集めるようにはなったものの、いかんせん材料がない時代である。「この頃、ろくな建築はできなかった」と、内田は振り返る。
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戦争中の建築は「なくてもいい仕事」。せいぜい飛行機の格納庫をつくればいい、くらいの話です。それが戦後になると、建築は「誰にとっても必要なもの」になった。420万戸の住宅が不足しているとされた時代ですからね、建築に対する価値観はまるっきり変わりました。ですが、需要があるにもかかわらず、材料が手に入らないので建築ができない。空襲で燃えた焼け木杭を集めてきて小屋を建て、テントを張って寝所をつくる、そんなところから始めなきゃいけなかったので、まともな建築などできませんでした。
逓信省自体にも仕事がなくて、最初の頃は、新人の仕事である鉛筆削りですら、なかなかやらせてもらえない。木材以外の材料が手に入るようになったのは、朝鮮戦争に入った50年頃でしょうか。経済全体が朝鮮特需に沸き、設備投資の活発化などが進んだのを機に、急激に仕事が増えていきました。いくら居残りをしても、追いつかないほどに……。
その頃、僕は電気通信省勤務になったんですけど、一つ印象に強く残っている仕事は、津島電話局です。津島というのは、愛知県を走る木曽川や揖斐川などの川が流れ落ちる中央部にあって、洪水が起きると、そこが島になるという場所。まだ電話交換機がなく、電話交換手が通話をつなぐ時代です。僕はその立地から、建物に足場をはかせ、機器類と交換手の居住部分を全部2階に上げる設計にしたんですね。当時の電話局としては、珍しいつくりです。その後しばらくして、同地が伊勢湾台風に見舞われ、心配で見に行ったら、見渡すかぎり海のようになっているなか、ちゃんと建っていた。一日も休まず機能していたと聞き、それがうれしかったですね。言うまでもなく電話局というのは重要な建物で、そのインフラを守れたわけですから。
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内田が逓信省(当時は日本電信電話公社)を辞め、東大工学部に〝戻った〞のは56年、31歳の時だった。きっかけは、その前に応募した国会図書館コンペ案が3等に入ったこと。「設計のできる人間が設計を教えるべき」という方針にあった東大から、声がかかったのである。そして、ここで内田はモデュール研究を本格化させていく。
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モデュールに興味を持ったのは、逓信省時代からです。長さの単位がインチからセンチメートルに変わるというので、世界がモデュールに沸き立っていた頃、そのニュースを伝えていたのが、大学の後輩である田辺員人さんでした。『国際建築』の編集長だった彼は、海外文献を紹介すると同時に、モデュラーコーディネーションの研究グループをつくろうと、我々仲間に呼びかけた。そこに数人のメンバーが集まり、文献を後追いしながら、日本は、どうやって尺をセンチメートルに置き換えていくかという研究を始めたわけです。楽しくてしょうがなかったですね。いわばマニアの集まりで、趣味的にやっていたから。モデュールが、のちに重要な仕事になるとは夢にも思わず(笑)。
僕がDφモデュールを考案したのは58年ですが、きっかけになったのは、義父の家を設計したこと。当初、フィボナチ数列によるコルビュジエのモデュロールを使おうとしたら、施工の大成建設から「コストがかかりすぎる」と、こっぴどく叱られましてね。何としても十進法でわかる数値にしなければと、フィボナチ数列と十進法の融合を考えた結果がDφモデュールです。その後、樋田力(大成建設)さんの提案が加わってわかりやすい数表となり、これを元にJISがつくられたのです。
追って、住宅不足を解消するために、大学でプレハブ研究を始めたんですけど、意外なことに、ここでもモデュールが関係するのです。僕の志向は、違うメーカーであっても部品交換ができるオープンシステムにあったので、そうなると、やはり規格が必要になってくる。内部を改造する際に、部品の寸法がモデュールに合っていないと、ビス一つにしても取り替えがきかない。そういうことまで含めると、モデュールにかかわる問題がどんどん広がっていったのです。結局は、工業製品としてどうあるべきかという話なので、その中身は変わっても、いつの時代にも続く永遠的なテーマなんですよ。
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- 研究と設計を両立させながら、精力的に活動する
- 内田祥哉
1925年5月2日 東京都港区生まれ
1947年3月 東京帝国大学第一工学部建築学科卒業
4月 逓信省技術員
1949年4月 電気通信省技官
1952年4月 日本電信電話公社社員
1956年4月 東京大学助教授
1970年4月 東京大学教授
1986年4月 明治大学教授
東京大学名誉教授
1993年4月 日本建築学会会長
1994年4月 日本学術会議会員
1996年4月 内田祥哉建築研究室設立
1997年4月 金沢美術工芸大学特認教授
2002年4月 金沢美術工芸大学客員教授
2010年4月 工学院大学特任教授
日本学士院会員主な受賞
1970年 日本建築学会賞(作品/佐賀県立博物館)
1977年 日本建築学会賞
(論文/建築生産のオープンシステムに関する研究)
1982年 日本建築学会賞
(作品/佐賀県立九州陶磁文化館)
1996年 日本建築学会大賞(建築構法計画に関する一連の
研究および設計活動による建築界への貢献)
ほか多数