建物自体が人に「I love you」と言っているような感覚の建築。フォルムの美しさより、人々の活動や暮らしをどう良くしていくかという大きな視点が大切だと思う
トム・ヘネガン
「いつか日本に行く」。そう心に決めていたトム・ヘネガンが初めて来日したのは1990年。直後に手がけた「草地畜産研究所畜舎」では日本建築学会賞を受賞し、以降も、「ハイヅカ湖畔の森バンガロー」「ほたるいかミュージアム」「フォレストパークあだたら」などといった公共建築で数々の賞を手にしている。いつも「これが最後」と思いながら、真摯にプロジェクトに向き合ってきた結果だ。現在、東京藝術大学で教鞭を執るヘネガンは、母国・イギリスやオーストラリアなどにおいても、長きにわたって建築教育に力を注いできた。「建築は人々の生活をより良く、豊かにしていくためにある」――国や時代を超えて、彼は今日もその〝大志〞を伝え続けている。
実務とティーチングを通じて、建築家としての才を発揮していく
75年、磯崎新氏が審査員を務めた新建築住宅設計競技「わがスーパースターたちのいえ」において、ヘネガンは1等を獲得した。提出したものは平面図でも立体図でもなく、すでに存在している家や人々の暮らしを写真でコラージュした大きなパネル。「論理的な説得力があるだけでなく、表現方法としても新鮮でユニークである」と選評されたもので、これによって「トム・ヘネガン」の名は、日本の建築界にも知られるところとなった。
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スーパースターといっても、生き物としては我々と何も違わないわけで、何がスーパースターをつくるのかというと、我々がそう同意するか否か。アーキグラムと同様、私もかたちではなくロジックにしか興味がなかったから、ロジカルな視点で正直に考え抜いたところ、あのような案に行き着いたのです。コンペの募集要項には「平面図を必ず入れるように」という記載があったので、明らかに負けるような案だったわけですが、私にとっては、唯一正しいと思えた答えだったのです。
実は、学生だった私には、パネルを日本まで送るお金がなかったんですけど、ロン・ヘロンが親切にも「大丈夫だよ。僕の案と一緒に送るから」って。そうしたら彼は2等賞。私の面倒を見なければ1等だったろうに……ヘロンは太っ腹です(笑)。コンペ結果を知らせるレターが届いたのはAAスクール卒業後。就職するまでの間に、ヨーロッパ中を旅していた時期でした。家に帰って通知を手にした時の喜びは、昨日のことのように覚えています。
後日談もあります。磯崎さんに聞いた話によると、彼は私の案を1等にした時、非常にナーバスになったというのです。前例にない「リアルな建築案ではないもの」を選んだということでね。でも、その後2回、私が〝まともなプラン〞で同じ新建築住宅設計競技で2等を取ったので、「顔が立った」らしいです。「ヘネガンは奇妙な建築家ではなかった」と(笑)。
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卒業後、ヘネガンは大手構造設計事務所のアラップ社に就職。不況が続いていた時期にあって、これもロン・ヘロン氏がつないでくれた縁だった。在籍は1年半と短かったが、ヘネガンは、その充実した日々を「キャリアのなかで一番勉強した時期」と振り返る。
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私はグラフィック担当として「構造3」というセクションにいたのですが、そこにはピーター・ライスをはじめ、当時の花形の構造設計家たちが集まっていました。彼らは皆、競うようにして新人である私を自分の仕事に引き入れようとしたから、おかげで、様々なビルディングタイプの仕事に携わることができた。
忙しかったけれど、ストレスを感じることはなかったですね。皆、すごい才能の持ち主なのに、そして創業者であるオブ・アラップにしても威を張るところがかけらもなく、とてもリラックスして仕事ができたのです。そういった仕事への取り組み姿勢や、人材に対する教育など、ここで学んだことも私の財産になっています。
1年半ほど経った頃、AAスクールから声がかかり、私はユニットマスターとして〝母校で教える〞ことを専業にするようになりました。これがまた楽しくて、あっという間に12年間が過ぎてしまった。一度はまってしまうと、なかなか抜けられない中毒みたいなものですよ(笑)。このままではずっと居続けてしまう……そう気づいた時、新しいチャレンジを、人生に変化をと考えるようになったのです。ある種の危機感だったかもしれません。その時、頭に浮かんだのが「日本」でした。
そもそも、建築の勉強を始めた60年代最後の頃から、日本に行くことは決めていたのです。当時は、人類が初めて月に到達したのを筆頭に、テクノロジーの進化がことに華々しかった時代で、アジア初となった国際展覧会、EXPO,70の様子もイギリスのメディアに盛んに取り上げられていました。見たこともないテクノロジカルな建物に目を奪われましたね。ロンドンで、曇り空と古い建物に囲まれて生活していた私には、それらがすごく輝いて見えた。でも、当時の日本行きの航空チケットは高くて、手が出せないものでしたから、「いつか行こう」と。その思いはずっと心にあったのです。
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- 新しい人生を求めて来日。多くの公共建築を精力的に手がける
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1951年 英国ロンドン市生まれ
1975年 AAスクール修了
構造設計事務所アラップ社勤務
1976年 AAスクール
ユニットマスター(教授~89年)
1982年 アリッソン+ピーター・スミッソン
建築事務所勤務
1985年 ロンドンにて個人事務所を設立
1990年 東京にて
アーキテクチャー・ファクトリーを設立
1991年 東京藝術大学招聘教授(~94年)
1998年 工学院大学工学部建築学科
特別専任教授(~02年)
2002年 シドニー大学建築・デザイン・
都市計画学部長
2009年 東京藝術大学美術学部建築科教授