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Architect's magazine

人間が持って生まれた五感が伸び伸び働く建築、心身にフィットするような建築。それが増えていけば、この国はもっと豊かになると思う

人間が持って生まれた五感が伸び伸び働く建築、心身にフィットするような建築。それが増えていけば、この国はもっと豊かになると思う

富田玲子

 有志らと共に「象設計集団」を設立したのは32歳の時。以来、富田玲子は45年以上にわたって「気持ちのいい暮らしの場」づくりに専心してきた。住宅「ドーモ・アラベスカ」やコミュニティセンター「進修館」、「名護市庁舎」「笠原小学校」など、手がけてきたジャンルは様々だが、共通しているのは、それら建築物がごく自然に、土地や人々の暮らしに溶け込んでいること。だからこそ、愛着をまとって長く息づいている作品が多い。女性建築家として先駆的な存在であっても、当の富田には気負いなどなく、その実はいたって自然体。仲間との協働を大切にし、自分たちが信じる〝豊かな建築〞に真っ直ぐ向き合ってきた。変わらぬその姿勢が、人々を惹きつける作品群を生み出しているのである。

名だたる建築家たちに師事し、学ぶ。好きな設計の世界へ

駒場の教養学部に通っている頃、富田が精を出していたのはクラブ活動。それも、ESSに茶道、水泳同好会と複数掛け持ちで、「忙しいから勉強どころじゃなかった」と笑う。2年生後期になり、富田が進路選択したのは、当初考えていた医学部ではなく、工学部への編入だった。1959年、富田は東大の建築学科第1号の女子学生として、この道を歩み始めたのである。

成績上位の人しか入れない医学部に進もうという学生は、クラブ活動なんかしないで猛勉強です。まぁ当然ですけど(笑)。私はあまり勉強していなかったし、これまたかなわないなぁと。専門を決める段になって、さてどうするか……医学部がダメだとすると理学部か農学部かになりますが、どちらもピンとこない。そんな時、10%だけ、理科Ⅱ類から工学部への編入枠があると聞いたのです。建築が再浮上です。もともと絵を描くことは好きでしたし、文理両方の要素がある建築は、私に合っているようにも思えました。そうしたら幸い、建築学科1クラス40人のところ、申し込み者が4人だったので、無試験でスッと編入できたのです。

当時の私は、ル・コルビュジエもフランク・ロイド・ライドも、日本の建築家の名前さえもろくに知らない無知ぶり。今にすれば、錚々たる顔ぶれの先生方が教えていらして、恵まれた環境にあったんですけど、建築知識が不足している私には難しく、ついていくのが大変でした。

そのなか、吉武泰水先生の計画学はわかりやすくて理解できたものですから、大学院では吉武研究室に入ったのです。ところが、学部卒業後すぐに甲状腺の病気で入院することになっちゃって、スタートが遅れたんですね。退院して研究室に戻ってみると、皆、何やら難しそうな調査研究をしている。数字や数式、模式図の世界で、私には無理だと。その時、はっきり気づいたのは「私はデザインがしたい」ということ。それから急遽、丹下健三先生の研究室に移籍させてもらいました。誰かがつないでくれた記憶があるんですけど、当時から大人気だった丹下研究室に、よく入れたものだと思います。


修士課程で丹下研究室に入ったのが61年。そのうち、富田ら学生は丹下氏主宰の設計事務所・URTEC(当時)に通うようになる。64年の東京オリンピックに向け、代々木・国立屋内総合競技場の設計準備に入っていた頃で、富田たちも世界各国の体育施設の資料分析や設計案づくりに携わった。

エスキス段階に入ると、丹下先生は学生にも自由に案を出させました。皆楽しみながら、張り切ったものです。私が出した案は、恐竜のステゴサウルスのような形をした屋内競技場。油粘土でつくった恐竜の50本のトゲがブースになっていて、そこに参加各国の応援団を入れるというもの。構造の専門家は面白がってくれたし、先生もニヤニヤして見ていらした(笑)。先生は、学生たちの様々な作品をとても熱心にご覧になっていたように思います。

屋内競技場が実施設計に入ってからは、貴賓室の内装を担当させてもらいました。スタンド下に生まれる長さ50m、幅7mの空間です。予算は潤沢だというので、大理石を全面に張って白いトンネルをつくろうと。でも石だと堅すぎるから、その上に虎の皮を被せるという案にまとめて出したんです。丹下先生は、またニヤニヤ(笑)。一方、ほかの偉い方たちは「気持ち悪い。そもそも床や壁、天井を同じ素材でやるなんてとんでもない!」という反応。でも、どんな批評でもOKなんですよ。学生気分というか、遊び半分でやっていたのですから。そもそも事務所には毎日出ていませんでしたし、私たち同級生はよく叱られていましたねぇ。

当時のURTECに、アルゼンチン出身の男性が来ていました。かつて吉阪隆正先生の教えを受けた人で、私の次の扉を開いてくれた人でもあります。虎の皮の一件からでしょうか、ある時、彼から「あなたは吉阪先生のところのほうが向いていると思う。一緒に行ってみましょう」と誘われたのです。それで訪ねた先が、吉阪先生の自邸の庭に建てられたプレファブ事務所、U研究室です。そこには、白くてきれいなビルにあるURTECとは全然違う空間があって、驚くと同時に、何やらとても面白そうに思えました。これを機に、私は修士課程修了後、U研究室に勤めるようになったのです。

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PROFILE

富田玲子

富田玲子

Profile
1938年9月24日 東京都新宿区生まれ
1961年3月 東京大学工学部建築学科卒業
1963年3月 東京大学大学院工学部建築学科修士課程修了

建築設計事務所U研究室(吉阪隆正氏が主宰)に所属
1971年6月 象設計集団の設立に参加
現在は象設計集団東京事務所に所属
家族構成=夫、息子1人とその家族、娘1人とその家族は別に住む
教職
東京電機大学、東京大学、早稲田大学、
マサチューセッツ工科大学、ペンシルベニア大学、
などで客員講師を務めた

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