建築技術よりもイマジネーションが大切。それを弾力的にするには、国外にも出て、視野を拡大するといい
竹山実建築綜合研究所
竹山実の建築家人生は50年を超える。その軌跡は、アメリカ、デンマークのアトリエで実務に就いたのを起点とし、当時としては珍しいワールドワイドな修業遍歴から始まっている。帰国して「竹山実建築綜合研究所」を開設したのが30歳の時。今も固有の美を放つ、新宿歌舞伎町の商業ビル「一番館」「二番館」を発表したのは、独立して間もない頃だ。とりわけ一番館は、日本にまだポスト・モダンという言葉が存在しなかった時代に誕生した衝撃的な建築物で、竹山は、その先駆的な存在として注目を集めた。しかし、長年にわたって生み出されてきた竹山の作品は、どれも一様ではない。自身の視点で、常に変化する時代を捉え、人の心に寄り添う"ものづくり"に腐心してきたからだ。傘寿を迎えた今も、変化をいとわない竹山はとてもリべラルで、旺盛な探究心を持ち続けている。
大学院修了後、日本脱出という宿望を遂げる。“武者修行”へ
日本経済に先が見えず、建築業界もひどく不況だった時代である。もとより就職を考えていなかった竹山は、そのまま大学院へ。ここでは研究室の学生数も限られ、特にデザイン系に進んだ学生はわずか5名だったというから、竹山は、今氏により深く師事するかたちで存分に学ぶことができた。一方で、「日本以外を見てみたい」という気持ちが強くなってきたのもこの頃だ。
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僕らの世代に小田実という作家がいますが、彼を有名にした体験記『何でも見てやろう』と同じような衝動ですよ。高校生の頃から英語に興味があったわけだし、思い返せば、胸にはずっと海外に出たいという思いがありました。とはいえ50年代後半の話でしょう、アメリカに入国するにもビザなど簡単に取れっこないし、1ドル360円の通貨レートに手の出しようもなかった。
数少ない方法の一つは、フルブライト・プログラムの給費生として渡米することでした。その資格を得るための試験は並大抵ではなかったけれど、つてを手繰って英会話を学び、2度目の挑戦で合格することができたのです。大学院を修了し、新たにハーバード大学の大学院に入学したのは59年でした。
住んでいた寮の前には芝生が広がっていて、そこには彫刻が配置され、大きなベンチもあって、学生たちがあちこちで談笑している。北海道生まれの僕は上京して息苦しさを感じていたけれど、あの解放感あふれる空間は何とも心地よかった。そして、世界中から集まってきた学生たちと共に学び、交友するのは実に刺激的でしたね。ただし授業は、それはもう厳しい。繁忙を極める設計事務所のように次から次へと課題が出され、留学生の場合は、続けて落第するとビザが取り消されてしまう。即刻、強制帰国ですよ。通った日本の大学院とのギャップに驚きながら、鍛えられたのもまた事実です。
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ハーバードでは、竹山の主任教授だったホセ・ルイ・セルト、当時健在だったフランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエなど、世界的な巨匠に触れる機会にも恵まれた。「写真でしか見たことのない建築家と直に会うことは、まさに興奮に値した」と、竹山は述懐する。大学院修了後、セルトの事務所で働く機会を得た竹山は、ここから実務に就くことになった。
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手伝わせてもらった仕事は、ボストン大学の学生会館や、ハーバード周辺の学校関係の施設でした。まぁ実務とはいえ、学生気分の延長というか、その作業は課題制作とあまり変わらなかったんですけどね。
そんな頃、巨匠・コルビュジエがアトリエを訪ねてきたのです。彼がハーバード大学のためにデザインした美術館の実施設計を、セルトの事務所が担当することになっていたから。僕はコルビュジエのデザインに魅了され、この仕事に参加したいと名乗りを上げた。役割としては実施設計に向けた準備でしたが、与えられた資料は、ラフな模型と寸法が何も入っていない基本図のみ。これでは展開ができないので、僕の仕事は、実施設計に必要な情報をコルビュジエの事務所から聞き出すことからでした。懇切な質問状をまとめたのですが、その回答が届いた時の驚きは今でも忘れられません。詳しい指示などいっさいなく、そこに同封されていたのは、三角定規と彼が書いた“黄金比”の本だけ。基本律を守る限り「自由に発想しなさい」というメッセージだったのです。思えば、僕はとても大きな教えを受けていたんですね。
その後、僕はデンマークに移ります。フルブライト制度のルールで、アメリカを去らざるを得ない時期を迎えた時、「これで帰国したら、またいつ出られるか……」。世界をもっと見て回りたかった僕は、ヨーロッバに行き先を求めたのです。書籍などを通じて、以前から作風に興味を持っていたヨン・ウッツォンに熱を込めた手紙を送り、受け入れてもらうことができた。「シドニー・オペラハウス」の建築デザインコンベで勝利した建築家です。事務所では、設計を始めて5年ほど経っていましたが、デザインの詳細がまだ決まっていなくてね。驚くと同時に、これほど悠々とデザインに取り組む彼らの姿勢が神々しく映ったものです。
それからアンネ・ヤコブセン、家具デザイナーのフィン・ユールなどの事務所を渡り歩き、まる3年を北の小国で過ごしました。ここで、建築というものが社会に深く根を下ろしている様を実感でき、建築物が市民的レベルで静かに息づいているのを観察できたことは、とても大きな財産となりました。
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- 帰国後、事務所を開設。ポスト・モダンの旗手として名を馳せる
- 竹山 実
Minoru Takeyama 1934年3月15日 北海道札幌市生まれ 1956年3月 早稲田大学第一理工学部建築学科卒業 1958年4月 早稲田大学理工科系大学院修了 1960年5月 ハーバード大学大学院修了主にボストン、 ニューヨークの建築設計事務所に
勤務(~1962年)1962年5月 主にデンマークの建築家の事務所、 デンマーク王立アカデミー建築学科に勤務 1964年4月 竹山実建築綜合研究所開設 1965年4月 武蔵野美術大学助教授・教授(~2003年) 2004年4月 武蔵野美術大学名誉教授
- 主な著書
『街路の意味』(鹿島出版会:1977)
『建築のことば』(鹿島出版会:1984)
『ポストボダニズム』(C.ジェンクス訳:1987)『竹山実建築録』(六耀社:2000)
『そうだ建築をやろう』(彰国社:2003)
『ぼくの居場所』(インデックスコミュニケーションズ:2006)