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Architect's magazine

建築家の多様な職能が広く認識されるようになったこの時代は、本当に面白いと思う。活躍できる場がたくさんあるのだから

建築家の多様な職能が広く認識されるようになったこの時代は、本当に面白いと思う。活躍できる場がたくさんあるのだから

木下庸子

学生時代の大半をアメリカで過ごした木下庸子は、建築もかの地で学んだ。
入り口としては消去法的に選んだ道だったが、その面白さに魅了された彼女にとって、建築との出合いは「人生最高のもの」となった。住宅をはじめ、公共施設や歴史的建築物など、手がけた設計作品には受賞作が多く、プロフェッサー・アーキテクトとしての活動も長い。なかでも、木下が主題とするのは「住まい」だ。背景には、20代半ばになるまで頻繁に住まいを移ったという原体験がある。「住宅設計には様々な解が存在する」ことをリアルに知るからこそ、常に、そして真摯にその〝解〞を求め続けてきた。それが、時代性や型にとらわれない木下のオリジナリティを生み出している。

住宅を核に独創的な仕事を重ね、今日の礎を築く

ADH設立と時を同じくして完成し、吉岡賞を受賞した「湖畔の住宅」が木下の処女作である。かつて中学生の時にフラストレーションを感じたプレハブ住宅、つまり両親の家を建て替えたものだ。「よもや」と思っていた当の本人が建築家となり、時を経て一新させたという面白い巡り合わせである。

父が「納得がいくように」と言うので、最初の作品として存分にやらせてもらいました。内井事務所にいた頃に興味を持っていた鉄骨にチャレンジした建物で、ディテールもずいぶん勉強しました。ただ両親のことは知りすぎているから、自分のなかでは葛藤もあり、けっこう悩みましたけどね。結果、30年以上経った今もうまく使ってくれているので、よかったのかなと。

住宅でいえば、その後の「NT」も一つの新しいチャレンジでした。クライアントはプロフェッショナルな仕事を持つご夫妻で、とにかくお忙しい。「プラクティカルな家がほしい」というもっともな要求に応えるため、生活をいかに利便に、家事を回しやすくするか――特に奥様とは密な打ち合わせを重ねて臨みました。例えば、2階の南側の一番いい場所に洗濯物のオープンワードロープを設えたり、キッチンも徹底的にメンテナンスしやすいつくりにしたり。突飛なアイデアに、事務所内では「そんな提案は受け入れてもらえないよ」という声もあったのですが、クライアントには喜んでいただけた。友人が「シュフ(主婦・主夫)のいない家」と名付けたこの住宅は、設計プロセスにおいて強く思い出に残る仕事ですね。

こと住宅においては、クライアントがどういう生活を望んでいるのかを最重視します。でもそれは、必ずしも口頭で伝わってくるものではないので、むしろ言葉の奥に潜むものに到達するまで探る必要があります。そこが面白い。暮らしの数だけ〝解〞があるというか、それを探るプロセスに、私はものすごく魅力を感じるんですよ。

2000年代に入ってからはシルバーハウジングや集合住宅も手がけ、そのなか、大きなスケールで実現したのが「アパートメンツ東雲キャナルコート」だ。6組の建築家が設計した公団住宅として注目されたビッグプロジェクトで、木下らは5街区を担った。05年、木下はこの仕事をきっかけに「都市再生機構(以下UR)都市デザインチーム」のチームリーダーに就任、自身の活動領域を広げていく。

「公団」が「UR」になったのは私がチームに入る前年で、景観法が公布された年でもあります。住宅の供給から都市開発のコーディネイション業務にシフトしていくURの変革期で、私は景観形成にかかわるアドバイザーとして呼ばれたわけです。「手を動かす業務ではない」と言われ、直接設計はできないし、頻繁な会議で飛び交う〝公団用語〞は理解できない……当初は急な立場変化に戸惑ったものです。でも、飾りのない見解を期待して私を呼んでくださったのだから、2年間精一杯やらせてもらいました。時には生意気な意見も出しながら(笑)。

重要な仕事の一つが景観ガイドラインをつくること。大きな街区には何社ものディベロッパーが入ってくるので、街区全体の景観をどうするか、関係者が共有できる方向性やルールをまとめてガイドラインを策定するわけです。長くかかる仕事で、私の在籍中には結果を見られませんから、いろんな専門家につなぐのも大切な役割でした。こういった仕事を通じて、街や景観を意識的に捉えるようになりましたね。それまでは、与えられた敷地をどうすれば最大限活用できるかに集中するあまり、敷地内に籠もっていた。でも、もうちょっと全体を見渡して、そこに疑問を感じるのなら手を施すのも建築家の大切な仕事だと気づかされました。

そして2年間で、130を超える団地を視察したことも財産になっています。私も団地住まいの経験はあるんですけど、長らく、団地というものは平行配置の〝羊羹〞が並んでいるようなものだと思っていたんです。でも視察を重ね、資料を読み解いていくと、そこには相当の知恵が絞られていることがわかります。特に60年代から70年代にかけての住宅公団設立初期の計画は、配置に様々な工夫があり、設計者の情熱を感じます。その面白さと奥深さを広く伝えたくて、本にまとめたのが『いえ 団地 まち』という公団住宅設計計画史。7年近くかけてやっと出したんですけど、団地の今後に対する強い関心は、今なお持ち続けています。

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PROFILE

木下庸子

木下庸子

1956年 2月7日 東京都生まれ
1977年 6月 スタンフォード大学工学部建築学科卒業
1980年 6月 ハーバード大学デザイン学部大学院修了
1981年 4月 内井昭蔵建築設計事務所入所(~1984年)
1987年10月 設計組織ADH設立
2005年 4月 UR都市機構 都市デザインチーム チームリーダー(~2007年)
2007年 4月 工学院大学建築学部教授

『孤の集住体』(住まいの図書館出版局/共著)、
『集合住宅をユニットから考える』(新建築社/共著)、
『いえ 団地 まち』(住まいの図書館出版局/共著)ほか

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