多くの人々に使われる、大きな建築を、細部にこだわりながらつくり続けたい
日建設計 設計部門 ダイレクター 土屋哲夫
設計への熱意から仲間とコンペに没頭
「大きな建築をつくりたい」という思いが土屋哲夫氏の原点だ。山梨県勝沼町で生まれ育った土屋氏は、東京大学進学のために上京した。「ビルが立ち並ぶ東京の風景に衝撃を受けました。ここで何か大きなものをつくりたいと強く思ったのです」
工学部の専門課程で建築を選択。修士課程では原広司研究室に所属し、その時期に原教授が取り組んでいたのが梅田スカイビルだった。
「あれほど大規模の建築にもかかわらず、住宅設計のようにどこまでも細部にこだわる先生の熱意ある姿は今でも忘れられません」
原研究室の卒業生の多くはアトリエ系の事務所に進む傾向があったが、土屋氏は日建設計に入所する。
「人とは違うことをやろう、と。そして社会的に影響力の大きな建築をつくるなら、組織設計事務所がいいと、単純に考えたからです」
入所後の3年間は様々な先輩の下で、一部分の設計を繰り返す修業の日々が続く。今となっては大事な時間だったと思えるというが、当時はそれが嫌で堪らなかった。そこで、業務時間外に仲間とコンペに参加するようになり、そのための作業で徹夜した朝、何食わぬ顔で通常業務に戻るという無茶な生活を続けた。当時は若手にも開かれたコンペが今よりも多かったため、同世代の仲間たちと応募していたそうだ。
しかしせいぜい入賞どまりで、どうしても1等に手が届かない。
「ずっともどかしい思いを抱えながら日々をすごしていました。そのうちに、違う場所で挑戦してみたいという気持ちが高まり、イエール大学大学院への留学を決意したのです」
飛行機で降り立ったニューヨーク。摩天楼を見て、大きなものをつくりたいという思いが再燃する。
「大学院修了後はアメリカの設計事務所で働きたいと思っていたところ、大学院の卒業作品発表の場に来ていた方から声をかけていただき、〝SOM〞で働くことになりました」
当時、好景気にわくアメリカには仕事が溢れていた。そのため次から次へと新たな設計に携わることができたのだが、アメリカ特有の分業的設計に戸惑う。デザイン後のディテールなどは別のテクニカルチームが行うため、最後まで担当することができないのだ。
「大学院時代、原先生が完成まで作品のすべてを手がける姿をずっと見ていたでしょう。やっぱり最初から最後まで自分でやりたくなるのです。もやもやしながらも、すべて自分でやるしかなかった日建設計での日々が懐かしくなりました(笑)」
帰国して30歳で日建設計に復帰すると、同期はすでにいくつもの作品を完成させていた。遅れをとったことを自覚した土屋氏は、どんな仕事でもやる意気込みで設計業務にいそしんだ。
しかし、ことごとく担当プロジェクトが頓挫する……。社内では〝建たない男〞と囁かれ、やっと1件目のオフィスビルが完成したのは35歳の時だった。
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- 常に最高を目指し、絶対に手を抜かない
- 土屋哲夫
つちや・てつお 1970年、山梨県生まれ。
94年、東京大学大学院工学系研究科修了後、株式会社日建設計入社。
99年、イエール大学大学院修了後、SOM New Yorkに勤務。
2000年の帰国後、日建設計に復帰、現在に至る。
環境設備デザイン賞優秀賞、日本建築士連合会賞優秀賞、日事連建築賞優秀賞、日本建築家協会賞など受賞多数。
- 株式会社日建設計
所在地/東京都千代田区飯田橋2-18-3
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