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SDGsすべての項目にかかわる 建築を取り巻く活動は、多彩にある。 何をしたいのか、長期的な目標を 持って自分の道を歩んでほしい

SDGsすべての項目にかかわる 建築を取り巻く活動は、多彩にある。 何をしたいのか、長期的な目標を 持って自分の道を歩んでほしい

国広ジョージ

 東京生まれの日系三世で、アメリカ在住歴33年。日米双方の文化を併せ持つ国広ジョージは、国際的な建築家として多彩な活動を紡いできた。1983年にロサンゼルスで事務所を構えたのを皮切りに、アメリカはもとより日本においても幅広く設計活動を展開。主に住宅や商業施設を手がけてきた。日本に拠点を移したのは46歳の時で、以降はアジア地域を主戦場としている。通じてプロフェッサー・アーキテクトとしてのキャリアも長く、数々の大学で次代の建築家育成に貢献。さらに環境問題に代表されるような社会活動にも熱心に取り組む国広は、建築家というより〝建築にまつわるすべての活動家〞と称したほうがふさわしい。

思ってもいなかった建築への道。大学での学びと経験が礎となる

 父親はカリフォルニア州生まれの日系二世。母方は三菱財閥本家の系譜にあり、国広自身は創設者・岩崎弥太郎の玄孫に当たる。初渡米は5歳の時、母親の帰化申請に伴い国広もアメリカ人となった。本格的に移住したのは中学校に上がる頃で、以降、国広は青春期をサンフランシスコで過ごしている。

 一時渡米はしたものの、小学校を終えるまでは日本にいたんです。今、重要文化財に指定されている湯島の岩崎邸の隣にあった祖父・彦弥太の屋敷で生まれ育ちました。かつて馬場やテニスコートがあった広い敷地には塀が張りめぐらされ、外に出ることは禁じられていたので、もっぱら使用人の子供たちと〝塀の中〞で遊ぶ日々。戦後の財閥解体で岩崎一族も苦労し、土地もずいぶん手放したようですが、それでも所有する別荘や牧場、私有墓地などといった施設は目にしてきました。今にすれば、歴史が息づく建造物に触れ、建築に結びつくような環境にあったわけですが、当時は自分が建築家になるなど夢にも思っていなくて……。

なりたかったのは電車の運転手。もう電車が大好きで、時には、頼み込んで運転席に座らせてもらったりしたくらい。以来、飛行機の操縦席を見た途端にパイロットに憧れ、高校時代にはアポロ計画に触発されて宇宙飛行士になりたいと、夢は進化していきます(笑)。幼い頃からいつも動き回っていた僕は、要するに〝動くもの〞に対する興味・関心が強かったんでしょうね。

正直言えば日本にいたかったのですが、母の強い意向でサンフランシスコに移住することになり、中・高校時代は同地で過ごしました。中国系を中心にけっこうアジア人がいたけれど、やはり白人社会においてはマイノリティだから、差別的な扱いはありましたね。結局、僕が落ち着いたのは、同じような顔をして英語を話す中国系移民の人たちとの場。生涯にわたる友人もできたし、アジアへの思い、自分はアジア人なんだという意識は、ここで芽生えたように思います。

 この頃、宇宙飛行士に憧れを抱いていた国広は、順当な進路として宇宙工学を選択。なかでも数学の成績は中・高通じてトップクラスだったから、十分に狙えると思っていたが、本人曰く「錯覚だった(笑)」。ここから一転、国広はカリフォルニア大学バークレー校の環境デザイン学部に進路を取り、建築設計の世界に入ったのである。

 アメリカの数学教育は日本に比べると格段にやさしくて、例えば中1の数学ならば、日本の小4で習う算数みたいなもの。日本では普通だった僕の成績は一気に上がり、ずっとトップでした。ところが、高校最後になって突如見たこともない難解な数学が出てきて、成績は最下位クラスに陥落。「数学ができる」は勘違いだったと気づき、落ち込みました。結局、夢を断念し、いろいろと思案するなか、蘇ったのは絵を描くことも好きだった自分でした。兄貴のような存在だった人から「絵が好きで理系を考えるなら建築だ」というアドバイスを受けたこともあり、この道を選んだという流れです。

カリフォルニア大学に入学した70年はベトナム戦争反対運動が盛んだった時期で、当初は全校ストライキで授業がなかった。心理学は自動的に合格、数学の授業は外の教会で行われたものです。高校の頃からイエロー・パワー運動をやってきた僕は、その延長で学生運動や抗議デモに参加。この経験から社会派的な意識が芽生えたのは確かで、のちにつながっています。
何も知らず建築に入ったし、何より建築は〝動かない〞から(笑)、正直入り口としては興味がなかったんですよ。ですが、設計の授業が始まってからはすっかりはまり、建築が大好きになった。仲間と夜を徹して設計に没頭するのが本当に楽しくてね。日本の大学と違って、アメリカの建築学部は理系、文系のハイブリッドだから、それも僕の性に合っていたのでしょう。

本取材は、国広氏が長く教授を務めた国士舘大学世田谷キャンパスで行われた。
本年2月26日に最終講義を終え、同大教授を退任。最後の教え子たちと。国広氏の右の女性は、
ともに環境事業を展開するパートナーの加藤淳子氏(株式会社ティーライフ環境ラボ代表取締役社長)
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今も息づく師たちの教え。紆余曲折を経て、建築家として踏み出す

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PROFILE

国広ジョージ

国広ジョージ
George Kunihiro

 

1951年東京都文京区生まれ
1974年カリフォルニア大学バークレー校  環境デザイン学部卒業
1976年ハーバード大学大学院 デザインスクール修士修了
1983年George Kunihiro Architect開設 (ロサンゼルス)
1987年同事務所をニューヨークにて開設
1998年ジョージ国広建築都市研究所設立(東京)国士舘大学工学部助教授
2001年東京大学大学院工学研究科博士課程満期退学
2003年国士舘大学工学部(現理工学部)教授(~22年)
2011年清華大学(中国)客員教授(現任)
2013年株式会社ティーライフ環境ラボに参画
2019年明治大学特別招聘教授(~21年)
2022年アリンインターナショナル株式会社顧問
その他役職

日本建築家協会副会長(2006年)、
AIA(アメリカ建築家協会)フェロー(2008年)、
ARCASIA(アジア建築家評議会)会長(2011~12年)、
「UIA(国際建築家連合)2011東京」
第24回世界建築会議日本組織委員会広報部会長(2002~11年)、
AIA国際理事(2013~15年)、
AIA日本支部会長(2016年)、
ARCASIA執行部アドバイザー(2017~18年)
ほか多数

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