【第16回】学生の“デザイン離れ”が加速している。 この由々しき事態を覆さねばならない
東北大学大学院工学研究科 教授 建築史・建築評論家 五十嵐太郎
この夏、大ヒットした映画「シン・ゴジラ」。日経ビジネスオンラインが、そのリアリティを各界の人間に問う特集に、私は『シン・ゴジラ対「ビジネススーツ・ビル」』という一文を寄稿した。
ゴジラといえば、ランドマークの破壊だ。かつて有楽町マリオン、東京新都庁舎、東京ビッグサイトなど、それぞれの時代に新たな名所に出現していた。ところが今回のゴジラ映画では、復元された東京駅以外に、ランドマークと呼べるような建築が見当たらない。代わりに目立つのは、「ビジネススーツ・ビルディング」だ――。言いたかったのは、そういうことである。
「 ビジネススーツ・ビル」は、建築史家の鈴木博之氏が揶揄して命名したもので、平たく言えばスペックは高いけれども、周囲からあまり目立たなくする大型の再開発ビルのことだ。上陸したゴジラの進路をたどることで、東京の街がそんな建築ばかりになったことに、あらためて気づかされたわけである。
では、なぜそうなってしまったのか? 大きなヒントが、昨年の新国立競技場建設をめぐる騒動にあるように思う。いったん決まりかけたザハ・ハディド案は、建設費の問題とともに、その“斬新な”デザインがメディアから叩かれるところとなった結果、“白紙撤回”された。要するに今の日本には、「目立つ建物はつくるな」という社会的な圧力のようなものが、強く作用しているのだ。この状況で、ゴジラ映画の“絵になる”ランドマークを建てる勇気を持つのは難しい。
ちなみに新国立のザハ案に関していえば、少なくともデザインはあれで問題なかったのではないかというのが、私の個人的な見解である。「絵画館を中心とした周囲の景観を壊す」というが、絵画館自体、出来たときには神宮の森にとって“異物”ではなかったのか。
いずれにせよ、「いい建築をデザインしても評価されない」「逆に問題が起こると建築家が非難される」という状況が、いつのまにか当たり前になってしまった。そうした空気も反映してか、このところ学生の“デザイン離れ”が加速しているように感じられて、私は危惧している。建築学科は華やかなデザイン系が引っ張っているというイメージなのだが、「作業が大変な割に収入が少ない」「取得できる単位数も多くない」ことなどを理由に、それを敬遠する空気が蔓延しているのである。私が勤務する大学に限ったことではない。全国どこに行っても、同じような嘆きを私は耳にしている。
過日、デザイン系の大学院の入試があって、試験官を担当した。即日設計を課し、翌日面接を行う。受験生は番号で認識しているので、誰がどの作品をつくったのか、面接の時点ではわからない。そこで、「どんな設計をしたのか?」と質問して、驚いた。十数人いた学生が、誰も形や構造の説明をしようとしないのだ。課題は集会所のような小さな建物だったのだが、揃って「まちに開かれた、誰もが集まりやすい……」といったコンセプトを延々と語ろうとするので、「ところでどんな形状なのか?」と聞き直さなければならなかった。
形をつくることを、何か悪いことでもあるかのように、忌避している――。若い人間たちの間に、無意識にそのような雰囲気が醸成されているとしたら、由々しき事態と言わざるをえない。
- 五十嵐太郎
Taro Igarashi 1967年、パリ(仏)生まれ。
90年、東京大学工学部建築学科卒業。
92年、同大学院修士課程修了。博士(工学)。
中部大学工学部建築学科助教授を経て、現在、東北大学大学院教授。
あいちトリエンナーレ2013芸術監督、
第11回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展日本館コミッショナーを務める。
『現代日本建築家列伝』(河出書房新社)、
『日本建築入門』( ちくま新書)ほか著書多数。