【第8回】建築家としての“総合力”を 培ってくれたプロジェクトの話
ARX建築研究所 代表取締役 武蔵野美術大学 理事・評議員 松家 克
大プロジェクトでも、小建築でも、ものづくりに臨む姿勢は変わらない。ただ、その規模感、かかわった期間の長さ、“カリスマ”本田宗一郎氏との出会いといった点で、1985年8月に竣工したホンダ青山ビル(本田技研工業本社)の設計は、今も思い出に強く残る。今回は堅苦しい話はやめて、そのエピソードをお話ししてみたい。
青山一丁目の交差点に、向かいの東宮御所に顔を向けるかたちで建てられた青山ビルは、地上16階、地下3階、高さは約72mある。大きさだけでなく、当時最先端のIT対応や省エネ技術などを導入したインテリジェントビル、今でいうスマートビルを標榜していた。
設計から竣工まで、丸10年。設計は、当時私が所属していた椎名政夫建築設計事務所が統括し、設備や構造を含め、最盛期には複数の事務所から、30名ほどの設計者が、現場に詰めていた。その部隊を、まだ31~32歳の歳の私がまとめるのである。周囲はみんな大先輩だ。やるべきことはわかっても、それをどのような言葉を使って伝えればいいのかに苦労した。そういう意味では、ずいぶん辛い思いもしたが、建築家としての“総合力”は、あの場でかなり鍛えられたのではないかと思っている。
“事件”が起こったのは、建物がほぼ完成していたある日のこと。「本田宗一郎氏が現場に来る」というので、待ち構えていた私たちの前に、終身最高顧問がドアを開けながら、「バカヤロー!」と叫んで現れたのだ。それから延々2時間あまり、烈火のごとき説教は続いた。
怒りの原因は、エントランスに直立する円柱だった。「丸い柱は宗教につながる。大銀行にあるように、権威の象徴でもある。こんなもの、俺のところに造りやがって!」と、文字どおり口角泡を飛ばすのだ。
さらに、「おらっちはお前よりクルマのことに詳しいよな」と前置きして、こんなことも言った。「その俺から見て、あの自動車の出入口は危ない。なんとかしろ!」。誰一人、そこが“出入口”ではなく、“入口専用の通路”だと口にすることはできなかった。
80歳近かった宗一郎氏の、真っ赤なネクタイと金のネックレスを、私は今でもまざまざと思い出すことができる。最終的には丸柱の側面を削り“小判型”にすることで柱の一件は収拾した。完成間近に言わなくても、という話ではあるが、その主張自体には頷けるものがあった。
ちなみに説教の間、叱られ慣れている役員ですら緊張していることがわかり、当時のホンダのプロジェクトリーダーは、「その件は、検討のうえ、後日必ずご報告いたします」と、完全に声が裏返っていた。すごい迫力だなあ~と思っていたら、「おい、松家!」とこちらにも矛先が向き、さすがに足が震えたが、最後に強い期待感を伝えられた。ただ、後で聞くと、宗一郎氏に叱られるのは、名誉なのだそうだ。顔と名前の一致しない人間は叱らない、というのが彼の流儀だったのだ。
91年に亡くなった時、「自動車メーカーが渋滞を招いてはいけない」との遺言で社葬を行わずに宗一郎氏の「ありがとうの会」が開かれた。会場には、生前嗜んだ水彩画に並んで、自筆の青山ビルの「定礎」の額が飾られた。意外にも女性的な書風のそれは、今も私の事務所(ARX)に大切に仕舞われている。
- 松家 克
Masaru Matsuie 1972年、武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業後、椎名政夫建築設計事務所に入所。
88年、ARX建築研究所を倉林憲夫、新井国義と共同創設。
2011年より、建築専門家集団「ARX+(アークス・プラス)」代表。
武蔵野美術大学理事、武蔵野美術大学評議員、
ArchiFuture実行委員長、『ディテ-ル誌』(彰国社)編集委員。