【第7回】この業界と仕事をより魅力的なものに。 今の建築家に課せられた使命である
ARX建築研究所 代表取締役 武蔵野美術大学 理事・評議員 松家 克
私がものづくりの魅力に目覚め、この世界に身を置くことになったのには、非鉄金属メーカーの科学研究員だった父の存在が多分に影響している。転勤先の南紀白浜で仕事を続ける親のもとを中学1年の時に出て、母の実家がある東京・中野で暮らし始めた頃から、私は、父の道具や資料に興味を覚え、これをきっかけに建築や美術関連の雑誌などを読み耽るようになった。中学3年の時には、すでに「建築の設計をしよう」と心に決めていた。
絵画や彫刻が好きだったため、大学は東京藝術大学の建築科を目指したが、2浪であきらめ、武蔵野美術大学に入学した。1998年、六角鬼丈氏に案内された東京藝術大学の美術館見学の折には、新校舎が林立し、以前にも増してとても狭苦しい印象を受けた。今では、私にとってはのびやかな“ムサ美”のキャンパスが性に合っていた、と感じている。
そこでは、中村好文など幾多の出会いもあったが、当時、助教授だった建築家・竹山実氏に師事したのは、その最たるものだ。72年、椎名政夫建築設計事務所へ入所したことも一つの因縁だった。竹山事務所のチーフの奥様が出産のため、勤務していた椎名事務所を退職することになり、「誰か行くやつはいないか」と、私に声がかかったのだ。正直なところ、あまり乗り気ではなく、級友に誘いの電話をかけまくった結果、まだ就職を決めていないのは、自分一人だと気づかされ、私は、すごすごと雨の日に面接に出かけることとなった。
しかし、人の運命は計算できないものだ。そこがアトリエ的な目指したい事務所であり、椎名氏との縁が深いこともわかり、「早い時期に独立を」と考えていた私だが、結局、17年間もお世話になった。椎名氏に出会ったのも運命的であり、プロフェッショナルとしての仕事を知らず知らずのうちに教えられていた。実は31歳の時には、独立の話を具体的に始めていた。ところが、直前で本田技研工業の青山本社ビルの設計という大仕事が舞い込み、それにかかわり、独立計画は10年も先延ばしになったのだ。そのホンダのプロジェクトの仲間と共に、ARX建築研究所を設立したのは、40歳の時だった。
私自身は、学生時代から早く社会に出て建築の仕事がしたい、という強い願望があった。だが、最近の若い人たちを取り巻く環境では、そうしたものづくりへのモチベーションが、やや希薄になっているように感じられるのは残念なことだ。ものづくりの楽しさを教えられない教育、ITを駆使すれば、楽に金儲けができるという風潮の蔓延……。原因は多岐にわたるのだろう。建築設計では、ものづくりへの対応が広範囲となり複雑化している。さらに、屋上屋を重ねるがごとき建築法規の存在が、更に拍車をかける。そうした煩雑さを嫌い、内に籠ってしまう面やいい仕事のチャンスが若い人に少ないことも、多分にあると思う。
だが、建築ほど大きな魅力にあふれた仕事はない。設計する建物は、広い地球上にただ一つ。しかも、いいものだと認められれば、100年後も200年後も残り、長く大切に使われていくのである。余計な障害をできるだけ取り払い、一人でも多くの可能性を秘めた若い人たちに、この魅力を伝えるとともに、魅力を感じてもらいたい。その道筋をつくるのも、我々の世代の役目だと思っている。
- 松家 克
Masaru Matsuie 1972年、武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業後、椎名政夫建築設計事務所に入所。
88年、ARX建築研究所を倉林憲夫、新井国義と共同創設。
2011年より、建築専門家集団「ARX+(アークス・プラス)」代表。
武蔵野美術大学理事、武蔵野美術大学評議員、
ArchiFuture実行委員長、『ディテ-ル誌』(彰国社)編集委員。