アーキテクト・エージェンシーがお送りする建築最先端マガジン

Architect's magazine

MAGAZINE TOP > Architect's Opinion > 協立建築設計事務所 代表取締役会長 日本建築士事務所協会連合会 会長 大内達史

【第5回】行き詰ったら表に出て社会を見渡す。 心を新鮮にすればアイデアは生まれる

【第5回】行き詰ったら表に出て社会を見渡す。 心を新鮮にすればアイデアは生まれる

協立建築設計事務所 代表取締役会長 日本建築士事務所協会連合会 会長 大内達史

 建築家にとって何が大切か。いろいろあるだろうが、やはり「発想力」ではないかと、私は思っている。「ありきたりのことをやっていても、お客さんは満足してくれないよ」というのが、若い社員に対する私の口癖だ。

 当社の創立者である伊東協一先生は、まさに発想力の塊のような人物だった。東京工業大学航空工学科卒の、もともとは“ヒコーキ野郎”。戦前の設計といえば花形は航空機で、建築設計に対するニーズが急速に高まったのは、戦後の高度経済成長期である。先生もその流れに乗って、ゼネコンに入社するが、1955年に東京・銀座に設計事務所を開いて独立した。当地の老舗百貨店の松屋、ハイヤーの大和自動車、それに博品館のオーナーに、その腕を見込まれてのことだった。

 67年、私が入社面接で初めて交わした先生とのやり取りは、忘れられない。スポーツ好きの先生は、「最も大事なのはチームワーク。仕事もチームワークでやるものだ」と強調する。だが、高校時代、ハードルの選手で、大学では体育授業の助手に抜擢されるほどのスポーツマンだった私には、異論があった。「チームワークといえば聞こえはいいけれど、カバーがいると思うと、自分に甘くなるのではないですか。最も大事なのは個人技を鍛えることだと思います」。結局、建築の“け”の字も出ず、ほとんど喧嘩別れ。その夜、人事部長から「いつから来てくれるんだ?」という電話がきたことに心底驚いた。

 伊東先生の発想は、ある意味、建築を超えていた。かつて、ビルの地下室といえば、ボイラーや空調設備などに占拠されていたのをご存知だろうか。それらをすべて屋上に“移した”建物を初めてつくったのが、先生だった。「地下1階は、地上2階と同じ家賃が取れる」というのが理由である。

 日本で初めてのリゾートマンション「熱海アビタシオン」を設計したのも、伊東先生である。その出来栄えを目にしたのが、秀和の創業者小林茂氏で、先生が設計した青い瓦屋根と白の外壁、フラットバーのバルコニーを基調とした「秀和レジデンス」は売れに売れ、日本のマンションブームの先駆けとなった。60年代半ばのことである。

 建築家は、とかく評論家の視線が気になるものである。だが、先生はそうしたことを一切意に介さない、という点でも徹底していた。例えば、71年に開業した商業ビル「銀座コア」は、当初、散々な悪評にさらされたものだが、「売れないものをつくってどうするんだ」と平然としていた。その正しさは歴史が証明したといえるだろう。

 発想力は、「空想力」と一続きのもののように感じる。「こんなのができたらすごいな」という「マンガの世界」から、ずっと現実の世界に降りてきて、地べたに着きそうになる、その一歩手前で止めてみる。そんな感覚だ。言葉で表現するのは難しいが、地べたに座って考えていても、従来の殻を破れないのだけは確かだ。

 冒頭の、私の口癖はこんなふうに続く。「机の上で建築雑誌を眺めていても、アイデアは出てこない。行き詰ったら、表に出て社会を見渡す。建物はもちろん、自然の草花、店に並ぶ商品など、いろんなものも見てごらん。そうやって心を新鮮にすることで、逆に“見えて”くるものもあるはずだ」

PROFILE

大内 達史

大内 達史
Tatsushi Oouchi

1967年、日本大学理工学部建築学科卒業後、協立建築設計事務所入社。
72年、工事監理部新設を提案し、初代責任者に。
86年、取締役工事監理部長。
90年、取締役設計統括。
98年、三代目のオーナーとして代表取締役社長に就任。
グループ会社、協立総合研究所、協立ファシリティーズの代表も務める。
日本大学桜門工業クラブ理事長。

人気のある記事

アーキテクツマガジンは、建築設計業界で働くみなさまの
キャリアアップをサポートするアーキテクト・エージェンシーが運営しています。

  • アーキテクトエージェンシー

ページトップへ