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Architect's magazine

建築には無限の可能性が 広がっている。何にでも挑戦できるし、 何でもつくれる。その可能性に目を 向ければ、こんなに面白い仕事はない 建築家の肖像 部憲明アーキテクチャーネットワーク Biographies of Legendary Person

建築には無限の可能性が 広がっている。何にでも挑戦できるし、 何でもつくれる。その可能性に目を 向ければ、こんなに面白い仕事はない 建築家の肖像 部憲明アーキテクチャーネットワーク Biographies of Legendary Person

岡部憲明

 岡部憲明が建築家としての活動を本格的にスタートさせた地はフランスである。25歳の時に渡仏し、「ポンピドゥー・センター」のプロジェクトに参加したのを皮切りに、イタリアでも活躍。日本に活動拠点を移したのは1989年で、著名な仕事として挙げられるのは、やはり「関西国際空港旅客ターミナルビル」と「小田急ロマンスカー」だ。通じて、自動車や船舶、鉄道、家具などといった建築以外の多様な領域に携わってきた岡部は、常に白紙からチャレンジを重ね、新しい方法論をも編み出してきた。そこに通底するのは「人間のための空間」「人間のためのデザイン」。人間性を重視した社会環境の実現が不変的なテーマである。

設計事務所を経て渡仏。ポンピドゥーの設計チームに参加する

 大学卒業後、岡部は山下寿郎設計事務所(現山下設計)に入所する。霞が関ビルディングやNHKセンターなどを手がけた老舗の組織系建築設計事務所で、「エンジニアと一緒に仕事ができる環境を求めて」選んだ先だ。在籍は約2年間と短いが、多くの仕事に携わり、大きな現場を知ったことは、岡部にとって確かな経験となった。

本取材は、2024年2月27日(火)、岡部憲明アーキテクチャーネットワークのオフィス(東京都中央区)で行われた。今日の技術的展開を視野に入れた上質なデザインの提供、人間性を重視した社会環境の実現に貢献する設計研究活動を推進している

 とてもいい事務所でした。僕が描いた図面には先輩が全部赤を入れてくれて、丁寧に教えてもらったのを覚えています。仕事量がけっこう多かった時期で、いろんな経験をさせてもらえたのは大きかった。一方で、僕はフランス語を勉強したくて、業務後は日仏学院に通っていました。相変わらず惹かれていたフランス哲学や文化にもっと触れたくて。学校通いもあって、朝は時々遅刻していたけれど(笑)、自由にさせてくれましたね。

せっかく勉強しているのだからと、試しに受けた留学生試験に運良く合格したのは、2年ほど経った頃です。フランス政府給費研究生としての留学ですが、当地の大学でも反体制運動が続いていたから、大学ではなく国家機関が受け入れてくれることになりました。慰留してくれた山下寿郎設計事務所には申し訳ないと思いつつ、フランスへ渡ることを決めたのです。

渡仏してからは実際に官公庁に入り、スタートとして、コルシカ島の調査や観光開発を手伝いました。その後、パリのレ・アール周辺で都市計画の仕事を手伝っていた時に、すでに動き始めていたポンピドゥー・センターのプロジェクトを知ることになります。65年にル・コルビュジエが他界して以降、フランスでは活発な建築活動が少なかったのですが、唯一、興味がひかれ、面白そうに思えたのがポンピドゥーでした。興味を持った僕は、先にこのプロジェクトの設計チームに入っていた石田俊二さんに連絡を取り、結果、参加が叶ったというわけです。

 レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースが率いるプロジェクトに参加したのは74年。以降、78年にIRCAM(音響音楽研究所)が開館するまで、岡部はチームの一員として設計建設に携わった。そして、その後も拡張計画や展示設計など、ポンピドゥー・センターとの付き合いは長く続く。この巨大で複雑な文化施設の設計と運営を知ったことは、岡部にとって間違いなく貴重な経験となった。

 当時、僕は26歳で一番若かったけれど、チーム自体の平均年齢が30歳を切るような組織で、何より多国籍でした。実際に一度数えてみたら16カ国も。あの時代としては非常に珍しかったと思いますね。ちなみにフランス人は少なかった。鉄骨や配管を剥き出しにしたラディカルな建物は、エッフェル塔以来の強烈な反対と物議を醸していたから、フランスの建築家は入りにくかったのでしょう。いずれにしても、世界中から集まった若き建築家集団は、コンセプト的にも技術的にも実験的なこの仕事に、皆情熱を燃やしていました。

ポンピドゥーで受けた影響は数々ありますが、特に出会った人々が素晴らしかった。ピアノはもちろん、日本とはまた違ったスタンスを貫く建築家たち、そして、世界的エンジニア集団であるアラップも。学生時代から、いつかアラップと仕事ができればと思ってはいたんですけど、それが叶ったのは光栄でした。アラップによる技術的保証が、極めて新しい建築を実現する最大の助けになったことは確かです。

橋をつくる技術を建築に組み込み、階層を重ねた建物をつくるというのは、普通の建築では考えられない構造ですから、大いなるチャレンジに立ち合うことができました。わかっていることをやるのではなく、初めてつくるということがいかに新鮮で刺激的か、それをこのプロジェクトで体得しました。ポンピドゥーの建築は紆余曲折を経ながらも、ピアノらのコンペ案と極めて近いかたちで、そのデザインコンセプトを実現したと思います。パリの街とはまったく相貌が異なる建築ゆえに、建築家たちが批判を受けたこともありましたが、強く支持してくれたフランス政府の官僚たちの存在も大きかった。関係者の誰もが優秀で、ヨーロッパ中の英知が集まっていた場に身を置けたのは、本当に貴重な経験となりました。

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欧州での活動から得た経験と知見を携え、日本で大規模建築に挑む

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PROFILE

岡部憲明

岡部憲明
Noriaki Okabe

1947年12月9日 静岡県富士宮市生まれ
1971年 早稲田大学理工学部建築学科卒業
山下寿郎設計事務所入所
1973年 フランス政府給費研修生として渡仏
1974年 ポンピドゥー・センター設計チーム参加
1977年 Piano + Rice Associati 設立
1981年 Renzo Piano Building Workshop Paris
チーフアーキテクト
1986年 フランス政府公認建築家資格取得
1988年 Renzo Piano Building Workshop Japan
代表取締役(~94年)
1995年 岡部憲明アーキテクチャーネットワーク設立
1996年 神戸芸術工科大学教授(~2016年)
2007年 神戸芸術工科大学博士(芸術工学)

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